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【田舎暮らし連載】オダジーの、ふらの暮らし応援記 第2回:先輩フラニストの”ナマの声”(3)塗装屋「有限会社西原美装工芸」代表・西原栄寿さん

  • 2021年03月22日更新

私は、よりたくさんの若い人に富良野に来てほしいと思っています。そこで問題となるのが仕事です。富良野に住み続けるには、仕事が何より大切になります。そんななか、私が考えたキーワードは「手に職」です。手に職をつけて、富良野で起業する。手に職をつけると、移住のハードルはうんと下がってきます。
「起業」というと、「私には無理そう」、「難しそう」などと考えてしまう人が多いかもしれません。しかし、一軒の家があるとします。家は古いし場所もあまり良くないけれどまあまあ住める。もちろん家賃は安いし、買ったとしてもそれほど高くはないでしょう。そこで例えば指圧師としての技術があれば、ほぼそのまま開業できます。これが、オダジーがイメージしている「起業」です。富良野で必要とされている「手に職」はまだまだたくさんあると思います。
今回お話を伺った西原さんはまさに、塗装屋として自ら開業し地域に溶け込んで仕事をしているフラニストです。さらに冬の期間は富良野での仕事が難しくなるため、川崎市にあるご自身の実家を拠点に塗装の仕事を自営しています。何事もフレキシブルに考える西原さんだからこそ、移住を軽々と実現できたのかもしれせん。

父の影響で塗装の道へ

父の影響で塗装の道へ父の影響で塗装の道へ

――プロフィールを教えてください。
西原:1963年、神奈川県川崎市の山の方で生まれました。1997年に富良野に移住するまで川崎に住んでいました。現在は妻と長女、長男の4人家族です。川崎の高校を卒業後、赤坂の音楽専門学校のギター科に2年間通いました。ギターは中学生の頃から弾き始め、アリスやかぐや姫、井上陽水などの曲をフォークギターで弾いていました。当時の学校ではエレキギターは禁止。「エレキギターは不良のもの」という時代でした。20歳になり、親にこれ以上面倒をかけるのも、と思いミュージシャンの道は諦めました。その後、本格的に父の塗装の仕事を手伝うようになりました。アルバイトとして高校生の頃から父と一緒に働いていたので、すんなり入っていけました。しかし、父は後を継ぐのは反対だったようです。塗装の仕事が大変なのは父が一番分かっていたからだと思います。直接聞いたことはないですが…。

――お父様が塗装屋をされていたのですね。
西原:父は自営業の塗装屋をやっていました。少し変わっていて、家からは作業服ではなく普通の服装で仕事に行っていました。近所の人は父が何の仕事をしているか分からなかったと思います。帰ってくる時も、ペンキで汚れていることはありませんでした。几帳面な性格みたいです。塗装屋と言っても、私が生まれる前は橋梁の塗装をやっていたそうで、日本中の現場に行っていたと聞いています。1955年頃、シューパロ湖に架かる旧森林鉄道の鉄道橋である三弦橋(さんげんきょう)の仕事で夕張に行き、そこで母と知り合いました。その後、私たちが生まれる頃には橋梁の仕事は辞め、住宅のいわゆるペンキ屋さんの仕事をやるようになりました。

夕張出身の母の影響で、北海道ファンに

夕張出身の母の影響で、北海道ファンに。夕張出身の母の影響で、北海道ファンに

――富良野との出会いを教えてください。
西原:母が夕張出身のため、子どもの頃は毎年、夏になると北海道に来ていました。毎回、帰る時に夕張メロンを箱で持って帰っていた記憶があります。北海道はその頃からずっと好きで、移住を決めた時も「小さい時から北海道に住みたいって言っていたね」と言われました。1987年に結婚し、新婚旅行では1ヶ月かけて北海道のスキー場をまわりました。富良野ではプリンスホテルに宿泊し、「すごいスキー場だね、この辺に住めたら良いね」と妻と話したのを憶えています。その後は毎年、夏になると家族で富良野に来て、「太陽の里」でキャンプをしたりしていました。

――移住先を富良野に決めたのはなぜですか?
西原:ここに来ると、心が落ち着くからです。夏になり富良野にテントを張ると、我が家に帰ってきたようでした。移住した今も、テントこそ張らないですが毎年「太陽の里」に行っています。また私自身、川崎で育ったと言っても山の方だったので、子どもの頃は田んぼや畑があって、虫を捕まえたり川でザリガニを釣ったりしていました。なので、自分も田舎で子育てしたいという思いがありました。もちろん自分たちが富良野に住みたかったのもありますが、子どもたちをこの環境で育てたいと考えたのが、富良野移住の1番の理由かもしれません。

中富良野の景色に一目惚れ

――富良野で暮らし始める準備はどうされましたか?
西原:はじめは不動産会社と富良野スキー場の近くの土地で話を進めていたのですが、もっと良い土地があると紹介されたのが、今住んでいる中富良野の土地でした。高台で芦別岳や富良野西岳、十勝岳が一望できる景色が素晴らしく、すぐに気に入りました。ただ、秋に決めたので、移住後すぐに富良野の冬を経験することになり、初めての吹雪には驚きました。今は周囲の木が大きくなりそれほど雪には苦労しなくなりましたが、住み始めた当時は大変でした。

――お子様たちは音楽の道に進んだそうですね。
富良野に移住した1997年当時、娘が小学校4年生、息子が2、3歳でした。子どもたちがあまり反発しない小さいうちに来てしまおうと考えていましたし、キャンプなどで何度も富良野に訪れていたので、移住することに反対はありませんでした。娘は、中学校から吹奏楽部でクラリネットを始め、現在は自衛隊でクラリネットを吹いています。息子は中学校からドラムを、高校3年間はバンドを組んでいました。今は東京で武者修行中です。私は20歳で音楽から塗装の仕事に入りましたが、息子は26歳までは続けさせてほしいと言っています。周りに家が密集していないので、楽器の練習はやりやすかったと思います。騒音などのクレームも来たことはありませんでした。富良野に移住したお陰で、子どもたちはそれぞれ自分の好きな道に進むことができたのだと思います。都会にいたらそうはならなかったかもしれません。

中富良野の景色に一目惚れカントリーポーラーベア

――奥様が運営している雑貨店「カントリーポーラーベア」について教えてください。
西原:自宅を新築してから3年程経った2000年にオープンしました。お店は、自宅前の敷地にアメリカからキットを輸入して自分たちで建てました。移住する前はお店を出そうとは思っていませんでしたが、オープン当時は周りに競合となるお店もなく、仕入先のメーカーもどこでもOKだったので、「始めてみようか」という感じでスタートしました。昨年の夏には、お店の前にステージを作り、イベントを企画し始めました。昨年は息子がまだ札幌にいたので息子のバンドが演奏を、今年も札幌からバンドを呼んで息子と私も参加しました。それと地元のゴスペルのグループにも出演してもらい、妻もそのグループで歌いました。イベントのタイトルは「ポーラーベアジャンボリー」。お店の売り出しも兼ね、お客様や私たちの知人、観光客の方などが来てくれます。

「手に職」は本州で習得すべし!?

「手に職」は本州で習得すべし!?「手に職」は本州で習得すべし!?

――西原さんは移住を果たし、自然あふれる環境のなかで雑貨のお店を経営し、好きな音楽も楽しんでやっている。正に、移住者の”お手本”のように思えます。それはベースに塗装屋として「手に職」があったからだと思います。
西原:塗装の技術がなければ、富良野に来るのは難しかったと思います。富良野はほぼ100%トタン屋根です。東京は瓦屋根が多く、あまり屋根の塗装はありません。また、本州では本当に梅雨に泣かされました。その時期はまったく仕事ができません。しかし北海道は梅雨がない。当時中富良野町に塗装屋が1社もなかったことも幸運だったと思います。移住当時は若かったからか、何とかなるだろうという思いがありましたが、今は保守的になり、あまり冒険しなくなった気がします。正直苦しい時もありましたからね。
「手に職」と言っても、技術を習得するなら本州が良いかもしれません。細かい細工はなかなかこちらにはないからです。家の作りが全然違います。向こうの家の方が複雑で、細かい仕事があったり、段取りが違ったりします。そういう点で、技術を磨くには本州の方が断然良いです。もちろんやる気の問題もありますが、3年から5年程東京で修業するのが良いと思います。塗装屋は、職人になるための設備投資も少ないですし、道具を集め出せばキリがないですが、極端に言えば刷毛とペンキとサゲツ(塗料を入れる容器)があればいくらでも技術は磨けます。塗装は機械ではできない仕事がたくさんあります。ある程度修業を積めば塗装屋の仕事は色々あるので、仕事に困ることはないと思います。

――今も、冬は川崎に戻って塗装の仕事をしていますよね。
西原:今年は12月に入ってもまだ富良野にいますが、例年通りだと11月頃から川崎に出稼ぎに行きます。富良野に戻るのは雪が融ける4月下旬くらいです。半年富良野、半年川崎の生活ですが、お互い何回か行き来しますし、子どもたちは冬休みにディズニーランドに来たりしていました。川崎でも、自分が営業して仕事をとってくるので、富良野と同様に仕事のスケジュールによっては目いっぱい働いたり、春までにできない仕事は来年にしてもらったりなど、やりくりしています。希望は1年を通して富良野で働きたいですが、冬の塗装の外仕事はほとんどないので難しいです。1度お店のオープンの関係で、真冬に足場を組んでビニールで囲み、ジェットヒーターをつけて塗装しましたが、「ここまでしないと1年中こちらに居られないのか。そこまでやらなくても…」という感覚がありました。単価的には富良野の方が安いですが、通勤時間はないですし、周りが空いていて仕事がしやすい。足場を組むのに、東京では2日かかるところが富良野では半日で終わる。そういうことを考えると、回転率はこちらの方が良いです。さらに雨が綺麗で埃が少なく、下地処理がものすごく楽に済みます。錆なども少なく、それに伴う細かい作業がないので時間も短縮できます。

――西原さんと話していると、私が抱いている職人のイメージを感じませんでした。
西原:もちろん、昔ながらの職人気質の人もいますが、今はそれでは生きていけません。営業も人付き合いもできなきゃいけない、そう考えるとこうならざるを得ないのではないでしょうか。父もそうだったと思いますが、いかにも「職人です」という格好や服装はしたくないですし、あまり職人に見られるのが好きじゃないというのもあります。これからの職人は、柔軟にお客様の要望に応えなくてはならないし、お金に代えられない気持ちの問題もあります。「何でも気軽に言ってもらえれば、できることならやりますよ」というように、お客様に快く思っていただける仕事をしたいです。

自分の夢を富良野の地で実現させたことももちろん素晴らしいですが、同時に特に感心したのは、子育ても立派に成し遂げたことです。若い移住希望者にとって大きなネックとなるのが「仕事と子育ての両立」です。仕事に関しては、都会に比べ選択肢も少なく収入が低いという問題があります。子育てに関しては、学力の問題や都会の学校に通わせる金銭的な負担が出てきます。西原さんは事も無げに「必死だったよね」と言いましたが、見ず知らずの土地に家族で移住し、仕事も1からのスタートです。オダジーは本当に感心しました。西原さん自身も言っているように、大変な苦労もしてきたと思いますが、それでいてひょうひょうとした雰囲気がとても魅力的。今後も西原さんの仕事、そして音楽活動にも注目していきたいと思います。

【田舎暮らし連載】オダジーの、ふらの暮らし応援記シリーズ

第1回:富良野ってどんなところ?
(1)へそとスキーとワインのまち富良野
(2)美しすぎる!四季折々の富良野
(3)富良野の移住者とウマいもの
第2回:先輩フラニストの“ナマの声”
(1)バリアフリーの宿&カフェ「いつか富良野へ」増田直子オーナー
(2)「エゾアムプリン製造所」加藤公之さん・かおりさんご夫婦
(3)塗装屋「有限会社西原美装工芸」代表・西原栄寿さん
第3回:オダジーが聞く!「富良野市の取り組み」
(1)ふらの市移住促進協議会・渡邊さん×「いつか富良野へ」オーナー・増田直子さん

宅地建物取引士であるオダジーは、富良野やその近辺で田舎暮らしをお考えの方に、居住用物件や店舗用物件をご紹介できます。オダジーおすすめ物件はこちら

この記事を書いた人
オダジー

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